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ルミネのCMを見て考えたこと/性の認識基準とは?

人気エントリでここ数日上がっている田舎で底辺暮らしさんの記事でもとりあげられていますが、ルミネのCMが「セクハラ塗れでひどい」と話題ですね。

pokonan.hatenablog.com 

また、おしゃれの押し付けどうこうもありつつ「茶髪に巻き毛ぐるぐるミニスカート女子」が一番かわいいと定義しているかのような演出も相当問題です。「顔疲れてない?」って言われた方の女性も間違いなくきれいです。ファッションの多様性さえも、本来それを肯定すべきはずのルミネが否定しているところが、またやりきれない。

アホなのは代理店なのか、ルミネの担当者なのかは知りえませんが、CM制作ってものすごくお金がかかるし、人が何人もかかわっているし、上層部も内容をチェックしただろうに、誰か止められなかったのだろか…『海辺のカフカ』にも、「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。」という台詞がありますが、想像力の欠如とはおそろしいものです。

 

とはいえ、わたしにもいろいろと考えさせられたところもあって。

五年くらい前から「ルミネの広告がきらい」と言っていた女友達がいました。「『女』でいることを強要されている気がするから」という理由だったのですが、彼女は自分が「女」であることを自認も肯定もしているけど、「女」を強要されることがきらい。つまり、ルミネがずっとプロモーションしている、「化粧やおしゃれがすべての女性にとって幸せである」という価値観への嫌悪です。

そして数か月前に、彼女の感覚をよく理解できるという男友達と飲むことがあったのですが、「自分の中にある男性的な欲望を感じると、嫌悪感を覚える」のだそうです。彼は女性が好きな異性愛者でありながら、自身の内なる男性的な乱暴さや欲望に対して抵抗をいだいており、「セクシャルマイノリティに属するわけではないんだけど、だからこそ認知も理解もされにくい感覚」であると言っていました。 

正直、当時のわたしはふたりの話がピンとこなくて。「社会的価値観がどうこうよりも、たんに自分がきれいになるってわくわくしない?」という立場なので、別に社会が強要してもしなくても、わたしは化粧もおしゃれも好きだっただろうなあと思ってしまいましたが、これもひとつの想像力の欠如ですね。ルミネのCMを見て、ふたりが言っていたことがようやく実感として理解できました。反省。

 

男と女を考えるにあたって、最近エッセイマンガ『性別が、ない!』を読んでいます。

性別が、ない! (1) (ぶんか社コミックス)

性別が、ない! (1) (ぶんか社コミックス)

 

染色体の異常を30代になってから知らされて、それまで女性として生きていた著者が、 男でもなく女でもなく、男でもあって女でもある「半陰陽」になることを決意した、という話をストーリー4コマで描いたマンガ。もともと「女性」としての著者を知っている知人はみんな「男性」の格好になった著者を見ても「女性」の印象が優位にくる、のに対して、「男性」の格好になってから知り合った人たちは、「女性」だった過去を知っても「男性」にしか見えない、と言っているらしいです。

女性から「半陰陽」への変化に伴って、好みや趣味も変わるものかもしれませんが、根本的な性格はあまりおおきく変わるものではないと思うので、男性としてみるか女性としてみるか、というのは、つまりただの印象、ひいては偏見でしかないのでしょうか。わたしたちは何を基準に自分や他者の「男らしさ」「女らしさ」を判断しているのだろう、と考えてみたり。

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