北十字とプリオシン海岸

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岡崎京子展にエア参加してきたよ!

ちょうどトピック「岡崎京子」が上がっていますね! 1月から開始され、今月末で終わりの「岡崎京子展」ですが、あまり「原画展」なるものに関心がないということがあって、実は見送りました。てへぺろ

www.setabun.or.jp

じゃあ、何が「エア参加」かっていうと、展覧会の公式カタログをジュンク堂で購入したのです! 一般書店にも流通してるので(もちろんAmazonでも買える)、わたしのようなものぐさや、地方にお住まいの方は検討してみたらいいよ!

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

 

ということで、展覧会の感想ではなく、公式カタログの感想です。公式というからには、おそらくカタログの中身も、展覧会と同じ構成なのでしょうか。下記の通り。

Prologue オンナノコ考現学
SCENE1 東京ガールズ、ブラボー!!
SCENE2 愛と資本主義
SCENE3 平坦な戦場
SCENE4 女のケモノ道

上記4つのテーマに沿って、岡崎京子が各単行本に寄せたあとがきや、インタビュー、対談の一部を切り取って紹介しているほか、写植された生原稿をそのまま再現したようなページがありつつ、単行本化されていない短編もいくつか収録。あとはトリビュートとして今日マチ子の漫画や、穂村弘の短歌に、年譜などなど。400ページ超に渡る読み応えありの一冊です。

 

愛と資本主義と平坦な戦場

わたしは90年代に田舎で生まれたので、岡崎漫画の描く90年代の東京ガールズたちには全く共感ができないのですが、だからこそ「同時代性」を排して岡崎漫画のすごさを思い知れていると思います。

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

河原に捨てられたなにものかの死体を見つめることで、自分自身を勇気づけることができる少年少女たちの物語。

21世紀の到来を前にして、熱気があり、騒乱があった時代に、若さにあふれた子どもたちが暴力やセックスにエネルギーを注いでいた一方で、振り落とされないようにしがみつきながら孤独をかかえていた少数派がいたに違いない。

現代は都市生活者が抱える空虚さを満たすものはゆるい自己肯定や他者からの承認である、とする風潮ですが(それが悪いとかではなく、そういう時代なのでしょう)、岡崎漫画の都市生活者は、文字通りの暴力と痛みに耐えて戦い抜かなきゃ死んでしまう、という必死さがあります。それが「平坦な戦場」ということ。もちろん、「退屈」とか「空虚」も描かれはするのですが、それはあくまで暴力とセックスが連続する日々(=戦場)の中での「退屈」とか「空虚」なのです。

pink

pink

 

愛と資本主義のテーマを扱った代表作。ワニと暮らすOLの物語。「ワニと暮らす」は『コインロッカーベイビーズ』のアネモネからとったモチーフでしょうか。

 これは東京と言うたいくつな街で生まれ育ち「普通に」こわれてしまった女のこ(ゼルダフィッツジェラルドのように?)の〝愛と〝資本主義〟をめぐる冒険と日常のお話です。

「すべての仕事は売春である」とJ・L・Gも言っていますが、わたしも、そう思います。然り。

 それ、をそう思ってる人、知らずにしている人、知らんぷりしている人、その他、などなどがいますが繰り返します。

「すべての仕事は売春である」と。

 そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。

 〝愛〟は通常語られているほどぬくぬくと生温かいものではありません。多分。

 それは手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。そして〝資本主義〟も。

 でもそんなものを泳げない子共がプールに脅えるように脅えるのはカッコ悪いな。

 何も恐れずざぶんとダイビングすれば、アラ不思議、ちゃんと泳げるじゃない?『バタ足金魚』のカオル君みたくメチャクチャなフォームでも。

 現在の東京では「普通に」幸福に暮らす事の困難さを誰もがかかえています。

 でも私は「幸福」を恐れません。

 だって私は根っからの東京ガール、ですもん

(『pink』あとがき 1986年、マガジンハウスより)-公式ガイドブックscene2から

新しい時代の到来は得体のしれないこわさを感じます。資本主義の行き着く先の見えなさを、こわさを隠すために、人は欲望に溺れたがったのかもしれない、という気がする。

名作というのは時を超えて読まれ継がれるものなので、例えあと100年経っても岡崎京子は90年代が生み出した代表漫画家としてだけでなく、その時々で読者の目に新しく見える漫画家であり続けるのでしょう。  今回の展覧会は、彼女がその時代をどのように感じ、漫画によって何を表現しようとしたのか、を考える良い機会でした。(エア参加だけど!)

 

「八本足の蝶」のこと

あと、あんまり関係ないですが、岡崎京子というと、2001年に亡くなった若き編集者の二階堂奥歯さんを連想します。彼女の日記八本脚の蝶は、今なお管理人のいない廃墟サイトとして残ったまま。

最後のお知らせ

二階堂奥歯は、2003年4月26日、まだ朝が来る前に、自分の意志に基づき飛び降り自殺しました。
このお知らせも私二階堂奥歯が書いています。これまでご覧くださってありがとうございました。

この最後の言葉から与えられる印象の鮮烈さは計り知れない…。それはそうと、彼女は文学を愛した読書家ですが、岡崎京子作品もよく読んでいたらしく、日記にもたびたび取り上げられます。

 2001年7月22日(日)

・高度情報化社会の中ですりきれ、疲れ、苦痛の中で「ああ人間らしくなくなっちゃった」と悲観するのは、きっとある種の十九世紀的純情の表れでしょう。エリスの『アメリカン・サイコ』を読んでそう思いました。むしろ私はそこでへらへとにこにこと笑うことを望みたいし、そうありたい。
岡崎京子「ある過剰とある欠如としての」『文芸』2001年秋号 特集岡崎京子 河出書房新社

大学1年から2年にかけて、私にとって岡崎京子『pink』は特別な一冊だった。こういう言い方がどうしようもなく恥ずかしいのは承知の上で、ユミちゃんは私だと思っていたし。
違う。私は「ユミちゃん」だと思っていたんだ。

あの頃の私はなんであんなに幸福だったのか。めちゃくちゃ弱くてうすっぺらな殻しかないのに、だからこそ速度を増し続けたのだった。弱いけど、速いから強かったのだった。

自分で作り出した山に駆け上がり、眺望に感激した。山を作ると相対的に谷ができるのだけど、それには眼をつぶって飛び込んだ。(後略)

彼女自身がまるで岡崎京子のキャラクターみたいですね。それこそ『ヘルタースケルター』で観客を圧倒し、消え去ったりりこのように。彼女もまた、90年代の痛みに耐えて、戦っていた人のひとりだったのかも。

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

 

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