北十字とプリオシン海岸

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マンガ大賞2015 東村アキコ『かくかくしかじか』

 マンガ大賞2015が昨日発表されましたが、大賞は東村アキコの『かくかくしかじか』だそうで、おめでとうございます。正直、「このマンガがすごい!」でも近年押されまくっていたので、あまり意外性もないのですが、面白さは確か!

(というか、マンガ大賞2~14位までいずれもどこかのランキングで見たことあるものばかりですね…)(「このマンガがすごい!2015」での『ちーちゃんはちょっと足りない』1位くらいのサプライズがあってもよかったのにな~)

さっそくNEVERでまとめられていましたので、紹介。

matome.naver.jp

東村アキコといえば、実は同郷(宮崎)ということもあり、『かくかくしかじか』はじめ、『海月姫』、『ひまわりっ健一レジェンド〜』、『ママはテンパリスト』、『主に泣いてます。』、『メロポンだし!』など、けっこう代表作を一通り読んでいるのですが、いちばん好きなのは『主に泣いてます』だったり。

 シリアスとギャグの二重構造―『主に泣いてます

主に泣いてます(1) (モーニング KC)

主に泣いてます(1) (モーニング KC)

 

あまりの美貌がゆえに薄幸人生を生きる美人絵画モデル・紺野泉。彼女の望みは「ただ好きな人のそばにいること」。不幸を約束された絶世美女が、幸せ求めて非モテ道を突き進む。

今まで誰も描かなかった不幸美女の苦悩と抵抗を描く痛快笑劇、開幕!

2012年には菜々緒主演でドラマ化もしました。あらすじには「痛快笑劇」とありますが、実際は割とシリアスです。その美貌のせいで顔を合わせた男全員に惚れられてしまうために定職にも就けず、自身がモデルをしている絵画教室に通う女子中学生だけが唯一の女友達、という主人公の泉さん。彼女は愛人関係にある人気画家の青山仁を心底愛しているですが、当の仁さんは泉さんを創作活動のミューズとして大事にはしているものの、あくまで愛人で奥様のゆっこと別れる気はゼロ。まあ、不幸な人です、泉さん。

その「不幸」さが、東村アキコならではのギャグ描写で重過ぎることなくストーリーが進行するところが見どころ。つまりは「シリアスとギャグの2重構造」、もっとわかりやすく言えば「メリハリ」なのです。

booklive.jp

下記は上記リンク先より見つけた東村アキコのインタビュー記事より抜粋。

――90年代に吉田戦車さんが『伝染るんです(※6)』でブレイクして以降、シュールなギャグが王道になって、ボケ&ツッコミや小芝居系のギャグは「古いもの」と見なされるようになってしまったのですが、やり方次第で小芝居ギャグも新鮮なんだと気付かせてくれたのが『主に泣いてます』でした。

やり方次第だと思うんです。いかにも「ギャグですよ、お笑いですよ」というスタイルではなく、作品の骨組みを「シリアスとギャグの2重構造にする」ことで、よりシリアスが映え、ギャグが活きることになるんです。例えば演劇の世界、劇団☆新感線とか三谷幸喜さんのお芝居では3時間くらいの長丁場を持たせるために、お芝居の構成としてシリアスとギャグの2重構造にしますよね。こういうお芝居を観ると、シリアスな側面を持っていればドタバタなギャグをやっても寒くないんだってことがわかってくるんです。

海月姫』や『かくかくしかじか』もギャグ要素満載ですが、基本的に東村アキコは、自分はギャグ漫画家という意識が強い人のようです。それなのに、シリアスなシーンをちゃんと重く描くこともできるから、読み応えがあるんですよね。

主に泣いてます』では、美人過ぎるゆえに誰からも疎まれてはめそめそしていた泉さんでしたが、最終的には彼女自身が自分を好きになること、自立して生きていくことができるように成長します。大団円。ちゃんとそこに落ちをつけるところは少女漫画家出身らしいなと思います。※「主泣き」はモーニング掲載なので青年漫画

『かくかくしかじか』は抒情とギャグ

二重構造というところから、東村アキコ『かくかくしかじか』を語ると、こちらは早い話、「抒情とギャグ」と言うことができます。まあ、彼女が漫画家になるに至るまでの自伝的な漫画なので、「過去を回想する」タイプの物語に抒情がないわけがないのですが。

かくかくしかじか 1

かくかくしかじか 1

 

 『かくしか』は「嘘がなさそう」なところが、とても好きです。その時々で感じたことがとてもリアルだし、人間性に溢れています。作中では、東村アキコが美大を受けるにあたってお世話になった絵画教室の日高先生という人が重要人物として登場します。彼女の美大進学のために、かなりしごいた先生で、竹刀持って、デッサンが下手だと「紙に謝れ!」とか言う人です。

その強烈なしごきに彼女は「もう描きたくない」と教室を脱走したこともあるようですが、それでも描くことはやめなかったから、美大にも行ったし漫画家にもなれたわけなんですよね。

そして日高先生が4巻で余命宣告されるところで、最終5巻が本日発売。東村アキコには、日高先生にお世話にもなったけど、彼に対して後悔したことがいくらでもあります。人生は一直線なので後から「ああしていればよかった」と思ったところで修復はきかないものですが、いくらでも「修復」しようのある漫画という媒体で嘘を描かずに誠実に向き合う点はかなり好印象。まだ最終巻を読んでいないのですが、ラストは西原理恵子の『いけちゃんとぼく』を読んだ時並の壮大な抒情シーンが待ち受けて涙腺を刺激しまくってくれると期待しています。

 

そんなわけで、ストーリー漫画が好きな人にもギャグ漫画が好きな人にもちゃんと読めるおすすめの漫画家です。東村アキコ。こういうタイプの漫画って、東村アキコ以外だと西森博之くらいしかわたしは知らないですね。西森博之大好きです。『今日から俺は‼』が一番有名だけど、「ギャグとシリアスの二重構造」という意味では『天使な小生意気』はまさにそれに該当する気がする。

天使な小生意気 (1) (少年サンデーコミックス)

天使な小生意気 (1) (少年サンデーコミックス)

 

 

岡崎京子展にエア参加してきたよ!

ちょうどトピック「岡崎京子」が上がっていますね! 1月から開始され、今月末で終わりの「岡崎京子展」ですが、あまり「原画展」なるものに関心がないということがあって、実は見送りました。てへぺろ

www.setabun.or.jp

じゃあ、何が「エア参加」かっていうと、展覧会の公式カタログをジュンク堂で購入したのです! 一般書店にも流通してるので(もちろんAmazonでも買える)、わたしのようなものぐさや、地方にお住まいの方は検討してみたらいいよ!

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ

 

ということで、展覧会の感想ではなく、公式カタログの感想です。公式というからには、おそらくカタログの中身も、展覧会と同じ構成なのでしょうか。下記の通り。

Prologue オンナノコ考現学
SCENE1 東京ガールズ、ブラボー!!
SCENE2 愛と資本主義
SCENE3 平坦な戦場
SCENE4 女のケモノ道

上記4つのテーマに沿って、岡崎京子が各単行本に寄せたあとがきや、インタビュー、対談の一部を切り取って紹介しているほか、写植された生原稿をそのまま再現したようなページがありつつ、単行本化されていない短編もいくつか収録。あとはトリビュートとして今日マチ子の漫画や、穂村弘の短歌に、年譜などなど。400ページ超に渡る読み応えありの一冊です。

 

愛と資本主義と平坦な戦場

わたしは90年代に田舎で生まれたので、岡崎漫画の描く90年代の東京ガールズたちには全く共感ができないのですが、だからこそ「同時代性」を排して岡崎漫画のすごさを思い知れていると思います。

リバーズ・エッジ 愛蔵版

リバーズ・エッジ 愛蔵版

 

河原に捨てられたなにものかの死体を見つめることで、自分自身を勇気づけることができる少年少女たちの物語。

21世紀の到来を前にして、熱気があり、騒乱があった時代に、若さにあふれた子どもたちが暴力やセックスにエネルギーを注いでいた一方で、振り落とされないようにしがみつきながら孤独をかかえていた少数派がいたに違いない。

現代は都市生活者が抱える空虚さを満たすものはゆるい自己肯定や他者からの承認である、とする風潮ですが(それが悪いとかではなく、そういう時代なのでしょう)、岡崎漫画の都市生活者は、文字通りの暴力と痛みに耐えて戦い抜かなきゃ死んでしまう、という必死さがあります。それが「平坦な戦場」ということ。もちろん、「退屈」とか「空虚」も描かれはするのですが、それはあくまで暴力とセックスが連続する日々(=戦場)の中での「退屈」とか「空虚」なのです。

pink

pink

 

愛と資本主義のテーマを扱った代表作。ワニと暮らすOLの物語。「ワニと暮らす」は『コインロッカーベイビーズ』のアネモネからとったモチーフでしょうか。

 これは東京と言うたいくつな街で生まれ育ち「普通に」こわれてしまった女のこ(ゼルダフィッツジェラルドのように?)の〝愛と〝資本主義〟をめぐる冒険と日常のお話です。

「すべての仕事は売春である」とJ・L・Gも言っていますが、わたしも、そう思います。然り。

 それ、をそう思ってる人、知らずにしている人、知らんぷりしている人、その他、などなどがいますが繰り返します。

「すべての仕事は売春である」と。

 そしてすべての仕事は愛でもあります。愛。愛ね。

 〝愛〟は通常語られているほどぬくぬくと生温かいものではありません。多分。

 それは手ごわく手ひどく恐ろしい残酷な怪物のようなものです。そして〝資本主義〟も。

 でもそんなものを泳げない子共がプールに脅えるように脅えるのはカッコ悪いな。

 何も恐れずざぶんとダイビングすれば、アラ不思議、ちゃんと泳げるじゃない?『バタ足金魚』のカオル君みたくメチャクチャなフォームでも。

 現在の東京では「普通に」幸福に暮らす事の困難さを誰もがかかえています。

 でも私は「幸福」を恐れません。

 だって私は根っからの東京ガール、ですもん

(『pink』あとがき 1986年、マガジンハウスより)-公式ガイドブックscene2から

新しい時代の到来は得体のしれないこわさを感じます。資本主義の行き着く先の見えなさを、こわさを隠すために、人は欲望に溺れたがったのかもしれない、という気がする。

名作というのは時を超えて読まれ継がれるものなので、例えあと100年経っても岡崎京子は90年代が生み出した代表漫画家としてだけでなく、その時々で読者の目に新しく見える漫画家であり続けるのでしょう。  今回の展覧会は、彼女がその時代をどのように感じ、漫画によって何を表現しようとしたのか、を考える良い機会でした。(エア参加だけど!)

 

「八本足の蝶」のこと

あと、あんまり関係ないですが、岡崎京子というと、2001年に亡くなった若き編集者の二階堂奥歯さんを連想します。彼女の日記八本脚の蝶は、今なお管理人のいない廃墟サイトとして残ったまま。

最後のお知らせ

二階堂奥歯は、2003年4月26日、まだ朝が来る前に、自分の意志に基づき飛び降り自殺しました。
このお知らせも私二階堂奥歯が書いています。これまでご覧くださってありがとうございました。

この最後の言葉から与えられる印象の鮮烈さは計り知れない…。それはそうと、彼女は文学を愛した読書家ですが、岡崎京子作品もよく読んでいたらしく、日記にもたびたび取り上げられます。

 2001年7月22日(日)

・高度情報化社会の中ですりきれ、疲れ、苦痛の中で「ああ人間らしくなくなっちゃった」と悲観するのは、きっとある種の十九世紀的純情の表れでしょう。エリスの『アメリカン・サイコ』を読んでそう思いました。むしろ私はそこでへらへとにこにこと笑うことを望みたいし、そうありたい。
岡崎京子「ある過剰とある欠如としての」『文芸』2001年秋号 特集岡崎京子 河出書房新社

大学1年から2年にかけて、私にとって岡崎京子『pink』は特別な一冊だった。こういう言い方がどうしようもなく恥ずかしいのは承知の上で、ユミちゃんは私だと思っていたし。
違う。私は「ユミちゃん」だと思っていたんだ。

あの頃の私はなんであんなに幸福だったのか。めちゃくちゃ弱くてうすっぺらな殻しかないのに、だからこそ速度を増し続けたのだった。弱いけど、速いから強かったのだった。

自分で作り出した山に駆け上がり、眺望に感激した。山を作ると相対的に谷ができるのだけど、それには眼をつぶって飛び込んだ。(後略)

彼女自身がまるで岡崎京子のキャラクターみたいですね。それこそ『ヘルタースケルター』で観客を圧倒し、消え去ったりりこのように。彼女もまた、90年代の痛みに耐えて、戦っていた人のひとりだったのかも。

八本脚の蝶

八本脚の蝶

 

 

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