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愛の継続に足りなかったもの/「アデル、ブルーは熱い色」感想

※ネタバレあります。

 

2013年のカンヌ映画祭最高賞のパルムドゥール受賞作ということで、遅ればせながらフランス映画の『アデル、ブルーは熱い色』を観て来ました!


『アデル、ブルーは熱い色』予告編 - YouTube

 上級生のトマとのデートへ向かう途中、信号を待っていたアデルの呼吸が止まる。道の向こうのブルーの髪の女に目を奪われたのだ。すれ違いざまに振りかえり、アデルを射抜くような瞳で見つめる女。一瞬、アデルの視界から、彼女以外のすべてが消えた。…

 結論から申し上げますと、わたしはこの映画ダメでした…! 同性愛が受け付けられなかったというわけではなく、ただ主人公アデルが好きになれませんでした。最終的にこの二人の恋愛関係は破綻するのですが、あまり悲しいとは思えませんでした。あと、こう言っちゃなんですが、あまり可愛くないので男性にモテモテな理由がさっぱり分からなかったという…。

 

アデルとエマ、全く対照的な価値観の二人

まず、主人公のアデルですが、初登場時は高校二年生。文学が好きで、幼稚園の先生を目指す女の子です。もともと女性が好きだったわけではなく、男の子とデートしたこともあります。それがたまたま、どういうわけかブルーの髪のエマと恋に落ち、二人はつきあうようになります。彼女は、ごくごく普通の一般家庭で、両親からの愛情を受けて育てられてはいるものの、食事の仕方が汚かったり、芸術や哲学にもあまり理解が深められなかったりと、文化レベルとしては並より以下と言わざるを得ません。文学が大好きなのに芸術や哲学が理解できないってどうこと?という気もしますが、教養としての文学ではなく、物語が好き=感受性豊かということです。彼女はエマとサルトルの話をするときも、「『汚れた手』の舞台は好きだけど、実存主義は難しくて分からない」というようなことを言っています。彼女はよく食べ、よく寝て、よく泣き、よくセックスする。保守的でありながら、本能に従って生きる奔放な女性です。

一方のエマは、本人も画家ですが、美術への造詣も深く、実家も裕福なインテリです。象徴的だったのが、この二人がお互いの家に相手を食事に招くシーン。エマの家では美味しいカキと白ワインが振る舞われ、両親も娘の恋愛や生き方に対しても理解がありますが、アデルの家で出された料理はなんと大皿いっぱいのスパゲティ。アデルの父親は保守的な小市民で、二人がつきあっているのも内緒だし、エマの画家になる夢に対しても難色を示します。そんな家庭で育ったアデルに対して、エマが「あなたは文章を書くのが得意だから、何かやってみればいいのに」と言いますが、自身も保守的な彼女は「今が幸せだから、いい」と可能性を否定します。

そして、文化的価値観の違いと人生観の違いにより、ふたりの関係は終わりを迎えます。最後、エマが個展にアデルを招待するシーン。アデルはエマへの未練を示してか、ブルーのワンピースに身を包み、個展に足を運びます。そこにはアデルをモデルにした絵の数々。しかし、エマの気持ちはもうアデルに向いていません。アデルはさほど絵に関心もなさそうに(あるいは過去となってしまった二人の思い出と向き合いたくなかったのかもしれません)、個展を後にします。

 

愛の継続に必要なこととは?

彼女たちの苦悩はけっきょくのところ、“レズビアンだから”ではなく、男女の恋愛であっても同様の普遍的なものでした。偏狭な考え方をやめて、違う価値観を受け入れること――少なくとも受け入れようと努力すること、ないし、違う価値観をお互いに尊重しようとする試み――がアデルやエマの関係に足りなかったように思います。アデルが愛していたのはエマの何だったのか、ただの性愛ではなかったか、そういうことを彼女には考えて生きていって欲しいなあと思いました。そしてわたしが求めていたのは、こうした最低限の努力を積み重ねた先の悲恋だったので、なおのこと物足りなさを感じてしまったのですよね。

 

…ちなみにセクシャル・マイノリティを扱ったフランス映画で尺の長いものといえば、最近パッケージ化された『わたしはロランス』もありますね。これも雰囲気はよかったけど、女性に性転換した元男性のロランスが自己中すぎてわたしはダメでした~…。


映画『わたしはロランス』予告編 - YouTube

 

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