北十字とプリオシン海岸

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何か新しいことを始めたい“予感”への3つの刺激

気が付けば最後にブログを更新したのが昨年の7月という体たらくですが、再開した理由は近づく春の到来に気分が憂鬱になったことです。年の近い上司に「春になると落ち込みます」と打ち明けたところ「何かを始めなきゃ、って気持ちになるからでしょ」と言われましたが、まさにその通り。

大学を卒業し就職してからというもの、入学も卒業もない春に何の意味があるのだろうと思ってはそれを言い訳にして、常に「現状維持」を目標として生きているのですが、たまに知り合いが順調にステップアップして、それまでの自分と別れを告げて新しい世界に飛び込む姿を見ていると、ビシバシと見えない鞭に打たれて満身創痍となります。同世代は皆ゆとりかと思っていたけど、ゆとりは自分一人だけのようでした。つらい。

というわけで、タイトルは「何か新しいことを始めたい“予感”を刺激する3つのこと」です。この「刺激」というのはあくまでわたしの情動を刺激するものなので、誰にとっても刺激されるものでは決してないのですが、昨年見た映画や本の中から特に心に残ったものを文字化することで、思いを消化し、明日に生きるための養分を蓄えられる気がするので、こんなタイトルにしてみた次第です。

1.木曜日のフルット(漫画)

木曜日のフルット 1 (少年チャンピオン・コミックス)

木曜日のフルット 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 

  Kindle版はこっち→木曜日のフルット(1) (少年チャンピオン・コミックス)

 

それでも町は廻っている(1) (ヤングキングコミックス)』の石黒先生が週刊少年チャンピオンで連載している2ページ漫画。

実を言うと、『それ町』を読んだことはないんだけども、隣の席の先輩が週チャンを毎週購読しており、読んだ後に『弱虫ペダル』好きのわたしに貸してくれるので、何となく他の作品にも目を通したところ、『木曜日のフルット』を知ったのです。

主人公のフルットは、人間に餌付けされつつ自称「野良」の半端な猫。エサをくれる一応の飼い主は鯨井先輩という無職の女性。フルットの自由気ままで時々シビアな野良猫生活と、鯨井先輩のちょっぴり残念な人間生活が、独特の画風と視点で描かれます。

その「独特の画風」というのがこんな感じで(下記は2巻74-75ページ「お花見の巻」)、2ページという限られた枠の中で、漫画のキャラにしては特別個性的でもなければ美男美女というわけでもない、ごくごく普通の人たちの、ごくごく普通の日常が、お花見というちょっとした季節のイベントの中での、言葉遊びによる会話の掛け合いだけで彩られているさまを見るのがとても心地よい。

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もう一つ紹介したいのが、同じく2巻34-35ページ「フルットの巻㉗」。無職の鯨井先輩がアルバイトでアシスタントをしている漫画家・白川先生が缶詰を落っことす。開いていない缶詰を発見し、喜んだのもつかの間で、どうしても開かないので鯨井先輩を頼るも、フルットの思い通りにはいかず…という話。

もし、道端で猫が缶詰を拾ったらどんなことを考えるだろうとか、もし、なくした缶詰が思いもよらぬところからでてきたら、それは猫がこんな魂胆で持ってきたものかもしれないとか、そんな風に想像を巡らせると、大きな事件が何もなくても、毎日が少しだけ変化に富むような気がします。

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2.君とボクの虹色の世界(映画)

君とボクの虹色の世界 [DVD]

君とボクの虹色の世界 [DVD]

 

現代芸術家の ミランダ・ジュライによる監督作品。2013年公開の『ザ・フューチャー』がわたしの初ミランダ・ジュライだったんですが、前作が気になり続けて、1年後にようやく観られました。原題は『Me and You and Everyone We Know(私とあなたとわたしたちの知るみんな)』。作中でこの台詞が使われる印象的なシーンがあるのに、こんな意味不明なタイトルにした配給会社のハピネットピクチャーズさんは何を考えているのかと問い詰めたい。

とある小さな町のありふれた風景の中で起こるちょっとした人との出会い。この映画の好きなところは、一生懸命に生きているのに誰もかれもが不器用ってところです。「一生懸命に生きているのに不器用」な人たちを描いた映画なんて、有象無象にありふれているのは承知ですが、『君とボクの虹色の世界』では、その「一生懸命さ」も「不器用さ」も、過剰というよりも少し物足りないくらいに控えめに描かれていて、成功した人間がもしこれを見たら、「努力不足なだけでは?」「ちょっと卑屈過ぎない?」と思いかねないくらいだったりするのです。

例えば、主人公は世間にまだ才能を認められないアーティスト志望の女性。離婚したての靴売り場の店員に恋をするも、妄想力全開で、独特のアプローチを仕掛けて、彼にドン引きされるという…。観ている方も若干引いてしまうくらいのストーカーじみたアプローチなんですが、彼女の日常を「恋する女性」という側面だけでなく、「認められないながらも夢に向かうアーティスト志望の女性」という側面も見せることで、世間に認められない不器用な彼女の恋が「何とか成就してほしい」という気持ちを起こさせるわけです。

また、その靴売り場の店員にふたりの息子がいるのですが、母を失った息子たちと積極的にコミュニケーションをとろうとする父親に対して冷めていて、ネットに楽しむ現代っ子たちだったりします。そんな、主人公と靴売り場の店員の間には、「女性」と「男性」のずれが生まれているし、靴売り場の店員と子どもたちの間にも、「父」と「息子」のずれがあるしで、みんな何かしらの「ずれ」を抱えているんだけども、必ずしもそれはコンフリクト 【 conflict 】を生む類のものではなく、お互いのずれを認識することで、ぴたりとはまる瞬間がある。その瞬間のために、人は時に傷つきながらも、不器用に他人との対話を試みるのだろう、という気がします。

ところで、ふたりの息子の内、上の子の女友達が、将来の花嫁道具として、キッチン用品を買い集めるシーンがあるんですが、それが泣きそうなくらいのノスタルジーを思い起こさせました。幼少のころの風景を、こんなにも鮮やかに蘇らせてくれる映画って、なかなかないです。

 

3.素粒子(小説)

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 

 現代フランス文学を代表する一冊で、わたしのような文学の素養もろくにないくそゆとりがこの名作に対して何を言うことがあろうかという感じです。

内容(「BOOK」データベースより)

人類の孤独の極北に揺曳する絶望的な“愛”を描いて重層的なスケールで圧倒的な感銘をよぶ、衝撃の作家ウエルベックの最高傑作。文学青年くずれの国語教師 ブリュノ、ノーベル賞クラスの分子生物学者ミシェル―捨てられた異父兄弟の二つの人生をたどり、希薄で怠惰な現代世界の一面を透明なタッチで描き上げる。 充溢する官能、悲哀と絶望の果てのペーソスが胸を刺す近年最大の話題作。

簡単に言ってしまえば、生まれた時代と家庭の環境が原因で、人を愛することや、自分が幸せになるための方法を知らず、大人になった兄と弟が、それぞれの愛を探す話。ただ、ふたりが苦しみの果てにようやく求めていた愛に出会うも、その結末があまりに残酷で、著者の冷徹な筆致と相まってものすごい絶望感を抱かされます。

「きみと一緒に暮らしたい。もう十分だという気がする。今までもう十分不幸だったんだ。あまりに長い間あいだ。もっと後になれば病気になって、体がきかなくなり、死ぬだけだ。でも一緒にいれば最後まで幸せでいられると思う。とにかく試してみたいんだ。きみを愛していると思う。」(p305)

「きみと一緒にいれば幸せでいられる」でも「きみを愛している」でもでもなく、「…と思う」と付け加えるプロポーズの言葉から、幸せも愛も信じきれていないのが伝わって胸が締め付けられます。大好き、この台詞。

最終的にこの物語は、ふたりの不幸な男たちを救済する方法を一つ提示するような形で終わるのですが、それは個人としての解決ではない。愛も幸せも、感じ方は千差万別で、愛が感じられない、幸せが感じられない、のは、その人が生きてきた時代にも環境にもよるものなのかもしれないし、乗り越 えようとしたところで、乗り越えられないかもしれない。それでも、やっぱり人生を諦めてはいけないと思うし、諦めきれないのが人間なのかもしれない。けども、けっきょくのところ、ふたりが幸せになれる方法が何かあったとするなら、どんな選択をとるべきだったんだろうと考えたとき、本当に何も思いつかない。その「どうしようもなさ」が衝撃。「なんてことのない日常こそが幸せ」な、ゆとった脳みそが揺さぶられました。ちなみに映画の方はまだちょっとましだった。

素粒子 [DVD]

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時に人生に何かしら刺激は必要では、と思うのですが、もうこんな何が起こるか分からない時勢にあって、自分から何か積極的に働きかけることがはたして必要なのか? 世の中の方がわたしに変化を導くのでは? という疑問にあたっては、何もしない言い訳ばかりが増えていく今日であります。

何か新しいことを始めたい“予感”だけが募っていく。とりあえず春服を買うところから始めようかしら、と気持ちが落ち着くのはけっきょくそんなところ。

 

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